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東京広島県人会

事務局便り

【「人間万事塞翁が馬」講義】第4回広島U-30応援セミナーより①

連載 一 「人間万事塞翁が馬」講義 第1回 一

2019年11月29日(金)広島大学東京オフィスで開催した第4回広島U-30応援セミナーの講義を連載でお届けいたします。

第4回目の講師は、東京広島県人会副会長の三浦惺氏です。

【略歴】東京大学法学部卒業、電電公社入社後、東日本電信電話株式会社社長、日本電信電話株式会社社長、同社会長を歴任。
現在、日本電信電話株式会社特別顧問、株式会社広島銀行取締役、日本生命相互会社取締役

 

 

 

 

三浦副会長講演(「人間万事塞翁が馬」講義 ①)

 

吉藤:では、これより広島東京県人会第4回学生・若手応援セミナーを開催したいと思います。本日は、お忙しいところ、学生・若手応援セミナーにご参加いただきまして、誠にありがとうございます。私は、東京広島県人会総務部長を務めております吉藤と申します。よろしくお願いいたします。本日ですが、第1部として午後7時まで東京広島県人会三浦副会長によるセミナー。その後は机などのセッティングを変更いたしまして、第2部として簡単な懇親会を行えればと思います。

それでは、第1部を開催したいと思います。ここで講師である三浦副会長のプロフィールを簡単に紹介させていただきます。東京大学法学部を卒業し、電電公社に入社され、東日本電信電話株式会社社長、日本電信電話株式会社社長、同社会長を歴任されました。現在は、同社の特別顧問、株式会社広島銀行の取締役、日本生命相互会社取締役を務めておられます。それでは、三浦副会長、よろしくお願いいたします。

三浦:今紹介いただきました三浦です。県人会の副会長は社長になった時からですから11~12年になるかな。当時の県人会の会長をしていた東京ドームの社長の林さんから「名前だけでいいから入れ」と言われ正直にそれを受けて、社長時代は1回も県人会に出席しませんでした。しかし、会長になって、「おまえ、もう社長を辞めて、会長になったんだから、少しは暇ができただろう。だから県人会に出席してくれ」と言われまして、それまで全く出席していなかったなと反省し、それ以降は比較的真面目に県人会に顔を出すようにしています。

昨日NHKで大林監督が出ていました。余命半年って言われてから、最後の映画をこれも尾道が舞台なんですけれども、完成したということでした。声は、かなり弱っておられて聞き取りにくいけれども、一つ一つの言葉に重みがあるわけです。監督の平和への思いがひしひしと伝わってきました。

私も尾道出身です。尾道といっても、向島です。おやじが教師をしていたことから、秋田県で生まれまして、1歳で向島に帰りました。物心ついた時からずっと向島で育ちました。中学校は三原へ通いまして、島から自転車で渡し舟まで行って、そして自転車を駅の近くの親戚に預けて汽車通学をしていました。汽車の中では、三菱重工の社員の方と将棋を指して30分通いました。それから広島に下宿して修道高校に行き、さらに東京大学に入りました。

少し私の履歴書的になって申し訳ないんですけれども。健康のことを話します。1歳で向島に帰ってすぐ中耳炎を患いましたが島にはお医者さんもいない。それで尾道へ連れていったけれども分からなくて、もうほとんど死にかかって、たまたま知っている人が岡山大学の先生をしていて、そこにかつぎこまれました。あと2~3日たっていたら命はなかっただろうという。だから、私は身体障害者です。右耳は全く聞こえません。「神経を切ったうえに、多少脳に触ったかも」と言われたぐらいの大手術でした。耳も目と同じで二つで方向が分かる。だから子どもの頃、おふくろが台所で呼んでも玄関のほうへ走っていったこともあったようです。だから音楽も、僕はカラオケは全くできないんです。元々その手術がなくても音痴だったんでしょうけれども。

なぜ病気の話をするかというと、私の人生に大きな影響を与えたからです。おやじも数学の先生だったし、兄貴も理系へ行ったから私も高校で理系コースにいました。従って理科は物理、化学を選択していました。夏の進学指導になって、先生から「君は耳が不自由だから医学部はちょっと無理だね」と。「工学部でも、精密工学などもやっぱりちょっと制限されるよね」と言われました。そこで、急遽文系に変えたんです。でも、それが私にとって大きな分岐点であったわけです。法学部へ行って、教養時代は真面目に学校に行っていたんですけれども、教養の最後のほうになったら法律の勉強が始まりましたが、どうしても法律になじめないんです。修道の1年後輩に、今、ゴーンさんの弁護士をしている弘中氏がいるんですけれども。彼なんかは本当に法律が大好きなんです。しかし私は進路を間違えたと。法律が嫌いで嫌いで、と言うとちょっと極端ですけれども。もう一つ、耳の影響を言えば、今のメガバンクに就職が決まっていたのですが、身体検査を受けたら耳が不自由だというので、内定取り消しに遭いました。

そのようなこともあって理系が好きだったということもあり、電電公社に入社しまして、最初の10年は経理部門、計画部門、企画部門といった数字を扱う部門を経験しました。その後、突然全く希望もしない、経験もない労務担当の課長で出されて、いきなり団体交渉室へ連れていかれました。組合と交渉している中身も分からないし、労働協約一つも見たこともない未知の世界に入りました。それ以来ずっと足は洗えずに、地方の職員部長をやったり本社の職員課長等、職員と名の付くポストをずっとやって。私の望む道とは全く違う世界を歩きました。それから岡山支店長をやって、本社に帰ってから企画部長、総務部長、人事部長、労働部長と部長職を転々としました。とくに人事部長は5年もやりました。

その後、NTT再編があって、NTT東日本の副社長、社長をし、持株会社に移り、副社長、社長、会長をやり昨年退任した次第です。この間、全国を転々としたり希望しない部門を経験したり、後で話すNTTベトナムの社長で苦労したり本当に様々な経験をしました。まさに「人生万事塞翁が馬」、「七転び八起き」と言っていいと思います。

 

 

<②に続く>