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【「わが人生を振り返る」講義】第3回広島U-30応援セミナーより①

【「わが人生を振り返る」講義】第3回広島U-30応援セミナーより①

連載 一 「わが人生を振り返る」講義 第3回 一
2018年11月8日(木)広島大学東京オフィスで開催した第3回広島U-30応援セミナーの講義を連載でお届けいたします。

第3回目の講師は、公益財団法人資本市場振興財団顧問・東京広島県人会副会長の保田博氏(東京大学法学部卒業、大蔵省入省。同省事務次官、日本輸出入銀行総裁、国際協力銀行総裁、その他役職を歴任)です。

 

 

 

 

 

 

 

 

吉藤総務部長より開会のご挨拶

それでは、定刻になりましたので、これより東京広島県人会第3回学生・若手応援セミナーを開催したいと思います。本日はお忙しいところ、学生・若手応援セミナーにご参加いただきましてありがとうございます。

私は、東京広島県人会総務部長の吉藤と申します。よろしくお願いいたします。本日ですが、第1部として午後7時まで東京広島県人会 保田副会長によるご講演、その後、机などのセッティングを変更し、第2部として学生、若手の方々と諸先輩方とお弁当を食べながら交流を図っていただければと思います。

では、第1部を開催したいと思います。ここで、講師である保田副会長のプロフィールを簡単に紹介させていただきます。保田副会長は東京大学法学部を卒業後、大蔵省に入省され、主計局長、大蔵事務次官を務められました。その後、日本輸出入銀行総裁、国際協力銀行の総裁を経て、現在、公益財団法人資本市場振興財団顧問、読売国際経済懇話会議長を務められております。それでは保田副会長、よろしくお願いいたします。

 

「わが人生を振り返る」講義 第3回 保田博氏 ①

皆さん、こんばんは。ご紹介をいただきました保田でございます。既に86歳、前世紀の遺物のようなものが今更何をしゃべったらいいのかと思いましたが、何せ怖い住川幹事長のご命令でございましたので、出かけてまいりました。

私は、昭和7年の5月に広島県の呉市で生まれました。おやじは当時、呉の海軍工廠(こうしょう)の職工を勤めておりました。おふくろは当時海軍兵学校のあった江田島の出身でした。ご承知のように、当時の呉は海軍一色の町でしたし、私も小さいころから、海軍兵学校に行って海軍大将になろうというつもりで呉一中に入りました。

呉一中は、当時、日本国の中学校では海軍兵学校一番たくさん入る所でありましたし、海軍兵学校に入り、将来は海軍大将になることを夢見ておりましたけれども、私が呉一中に入りましたのが昭和20年の4月1日であります。戦争の様子は何も知らないで入ったんですが、実はその4月1日には既にアメリカ軍は沖縄に上陸をしていたんです。それを迎え打つために呉で造られた戦艦大和は沖縄に向かって出発したわけですが、軍の機密ですから、我々はそんなこと全く知らされていない。全く知らないで呉一中に入りました。

ところが呉一中に入った4月1日。3カ月後の7月1日には呉市はB29の焼夷(しょうい)弾攻撃で丸焼けになる。私自身も、家族5人が火の海に囲まれて危うく死にそうだったんですけれども、おやじが海軍工廠にいて、そういうことが多少よく分かったんでしょう。家族5人を連れて山に逃げた。防空壕(ごう)から出て山に逃げたのが命拾いでありまして、翌日、火が消えて山から下りてその防空壕をのぞいたら、残っていた人は全員窒息して死んでいました。おやじのそういう判断があったから私は生き残ったんですけれども、そういう生死を分けるような経験を諸君らはしたことはないでしょう。うらやましい限りです。

呉一中に入ったのが昭和20年の4月ですが、その3カ月後の呉市丸焼け、それから8月6日には広島に原爆が落ちた。その10日後、8月15日には終戦ということになったわけでありまして、私の海軍兵学校を経て海軍大将にという希望はあえなくつぶれてしまいました。同時に、子供心に持っていた国家、あるいは社会というものの存在だとか意義だとかというものは全面否定され、将来の希望ももう全くない中学生だったんですね。国家というものに対する考え方、あるいは社会、あるいは軍といったようなものに対する価値観は全面的に否定されましたし、日本古来の美徳だとか、国家観、社会観というようなもの一切が否定されてしまったわけです。

我々は、終戦の直前、つまり7月1日に呉市が空襲で丸焼けになった後の学校の校舎の跡にバラックの工場ができまして、そこで、万力に金属を差し挟んで、それをたがねでたたいて切るとか金属の加工の真似事みたいなことを10日ばかりやったところで、8月15日の終戦を迎えたわけです。

子供心に持っていた国家に対する考え方、社会に対する考え方等は、全て全面的に否定をされましたから、9月から学校は再開されても全く勉強する意欲なんてなくて、右往左往の毎日でした。それでも1~2年たつと学校生活もやや落ち着いて、僕は軟式テニスを始めました。当時、広島県はかなり強かったんですけれども、私自身も、当時の多くの選手と違ったトップ打ちというー今、硬式では世界の選手はみんなそうなんですがー球が上がってくるところを打つんです。軟式は普通はバウンドして落ちるところで打つ。それが僕の場合はもうちょっと早めに高いとこからぶち込むという、トップ打ちという練習をして、それで広島県の大会で準優勝を2回というぐらいの腕前にはなりました。

ただ、そのためには非常に練習に励みました。僕は、ラケットのグリップが浅かった。完全に横からじゃなくて、要するにラケットを長く使う打ち方だった。そのため、ラケットの尻で、ここで、どんどんこするわけですから、常に手の皿にまめができてつぶれる。よくしたもんで、僕がそうやって一練習ごとに包帯ががちゃがちゃになって、生傷が出てくる。これを治療したいという女の子がいっぱい、三津田だけじゃなくて、呉のあちこちの学校の女生徒が来てくれていまして、大変いい思いをしたのを今でも覚えております。

でありますが、やっぱり、そこまでいくにはかなり激しい練習をしました。広島は東京に比べると、夏なんかは日の暮れが遅いです。おまけに当時はサマータイムといって、夏だけ時計を1時間進めるわけですから、日の暮れがその分だけ、時計の時間でいうと遅くなる。しかも西国ですから日の暮れも遅いということで、晩の8時半ぐらいまでテニスの練習ができたんです。ボールが見えなくなってはじめて練習をやめる。後片付けをしてうちへ帰るとほぼ9時近く、風呂に入って飯を食って、それから多少は勉強もしなきゃいかん。そして翌朝はまた、授業が始まる前に1時間練習をするというようなことを重ねておりました。

ついに、高校3年生の夏にばてちゃったんです。今では何というのかよく分からない名前なのですが、とにかくおやじから聞くと肺門リンパ腺炎とかいう医者の診断で、休学をすることになった。その休学が意外と長引きまして、このままでは卒業できないという羽目になった。10月か11月ぐらいになって、いよいよこれで駄目だということになったものですから、さてどうするかと。そのときに思い出したのは、一中に入った、当初上級生で残っていた、つまり全員学徒動員に出た残り、要するに病気を持っている、昔ではいろいろ肺病とか何とか言っていましたけれども、そういう人たちでした。あの仲間入りをするのは嫌だなということで、結局、三津田高校を出ることにした。東京へ出てきた。

そして、翌年の2月ぐらいだったと思いますが、転入試験を受けたら、一番早かったのはやっぱり東京都立一中。それを受けたら入っちゃった。だもんですから、1年遅れで東京府立一中、今で言うと日比谷高校、そこに入った。さすがにその後の1年間は、私もテニスを忘れ、映画も見ないで勉強しました。おやじに悪いからね。そうしたら、翌年どうやら東大に入ったわけです。

<②に続く>