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【「わが人生を振り返る」講義】第3回広島U-30応援セミナーより②

 

【「わが人生を振り返る」講義】第3回広島U-30応援セミナーより②

 

連載 一 「わが人生を振り返る」講義 第3回 一

2018年11月8日(木)広島大学東京オフィスで開催した第3回広島U-30応援セミナーの講義を連載でお届けいたします。

第3回目の講師は、公益財団法人資本市場振興財団顧問・東京広島県人会副会長の保田博氏(東京大学法学部卒業、大蔵省入省。同省事務次官、日本輸出入銀行総裁、国際協力銀行総裁、その他役職を歴任)です。

 

「わが人生を振り返る」講義 第3回 保田博氏 ②

 

東大の駒場、教養学部に進学をすることができたんですけれども、将来何をやるかという進路は全然決まらない。当時、駒場で、尾高さんという法哲学の先生がいた。この人の講義を聞いていると、ドイツでは法律学のことをBrot Wissenschaft、要するにパンのための学問、つまり法学部を卒業すれば何となく飯ぐらいは食えると、どこかでつぶしが利くだろうという程度のことなんですけれども。そういうことがあり、自分の進路も決まらないものだから法学部に進んで、結局大蔵省に入ったんですけれども。大蔵省を選ぶについては、やはり郷土の大先輩、池田勇人、それからさらに大先輩で賀屋興宣さんという人が広島市出身でおられました。そういうこともあって、大蔵省を選んだんです。それがよかったんですかね。遊びながら、勉強もしながらですけれども、仕事もしました。

3年目に、中国財務局に1年行きました。ここでは金融検査官とか、財政係長か何かやらされました。当時中国財務局長をやっていた人が、大蔵省の主計局の先輩だった人がおられました。私は命令を受けました。中国5県の経済報告を本省に出す、その原稿を書いてくれということだったんです。書くんですが、ちょっと一ひねりしてみた。それは、中国5県を山陰の2県と山陽の3県とに2つに分けて、それぞれの特徴を書いた。これがえらく当時の財務局長さまに評価されまして「君、今度東京へ帰るときには、俺が主計局に推薦してやる」と。確かにそれから3~4年あちこち回った後、本省に帰るときには、その人の推薦が効いたんでしょう、主計局に入りました。

それから私は、主として大蔵省では主計局で国の予算編成の仕事をすることになりました。主査1年生というか、予算担当の、一番若手の課長補佐です。そのときに驚いたことに、公共事業という非常に大きな費目があるわけですけれども、そこの担当の総まとめ役と、道路河川という非常に金目を食う仕事の査定をするようにという命令を受けたんです。そのポストは、課長補佐というか主計官補佐、主査というんですけれども、卒業間際の、6年間そういう仕事をするとすると、最後の、卒業する直前の2年間か3年間をするのが普通だったんですけれども、1年生の僕にやれと、こういうことだったものですから、えらい張り切りまして一生懸命働いた。

9月に予算要求が出されて年末まで4カ月なんですが、9月の第1日曜日がその年の最後の休み。後はずっと年末まで休みなし。当時は土曜日も出勤日ではあったんですけれども、それはそれとして土曜日も半ドンなんてことは許されないし。日曜日も、唯一の特例は家族と朝飯を食うことだけは許されて、午後1時に出勤をする。それからまた翌朝の2時3時まで働いて。日曜日は、しかし朝飯兼昼飯を家族と一緒に食う、これが1週間に1回の楽しみというような状況でありました。

ある日曜日の朝、私が家族と飯を食って家を出ようとすると、子供たち、男の子が2人いたんですが、これが「パパ行ってらっしゃい」と。これは普通だからいいんだけれども、その次に「また来てね」と言うんですよ。何だかね、妾宅(しょうたく)の朝ってこんなんじゃないのかなと思って家内の顔を見たら、これも何とも言えない顔をしておりました。そういうことはあったんですけれども、幸い病気というのは先ほどの三津田の3年生のときに厄払いできたんでしょうか、その後は病気らしい病気もしないで、毎朝午前さまの仕事、日曜日もそういうことでしたから、よく体が続いたと思いますが。なかなか大変な仕事でありました。

 【「わが人生を振り返る」講義】第3回広島U-30応援セミナーより①

<③に続く>