事務局便り
【「人生学」講義】第2回広島U-30応援セミナーより①
連載 ―「人生学」講義 第2回 ―
2017年11月22日(水)ひろしまブランドショップTAU3階で開催した第2回広島U-30応援セミナーの講義を連載でお届けいたします。
第2回目の講師は、一般財団法人機械システム振興協会会長・東京広島県人会副会長の児玉幸治氏(1934年生まれ。広島大学附属高等学校卒業、東京大学法学部卒業、通商産業省入省。同省事務次官、日本興業銀行顧問、商工組合中央金庫理事長、その他の役職を歴任)です。
住川幹事長より開会のご挨拶
本日は多数ご参加いただきまして、ありがとうございます。この応援セミナーは、昨年は学生応援セミナーという名前をつけまして、学生の方を集めてやったのですが、今年は対象範囲を広げて30歳以下、20代の若者も一緒に聴いていただこうということで、元々の趣旨は、皆さん大学に行っておられると大学の教官のお話は聴いておられると思いますが、せっかく広島県を出て産業界とか官界でご活躍された私どもの大先輩から、大学の教官とはちょっと違った観点からのお話をしていただき、今後皆さんの人生の節目、一番大きな節目は就職、転職、あるいは結婚とかそういうことだと思いますが、そういう場合に、今日は児玉幸治さんのお話を聴いていただいて、それを参考にしていただければ、私たち主催者としては幸いだと思っていますので、よろしくお願いいたします。
「人生学」講義 第2回 児玉幸治氏 ①
皆さん、こんばんは。今お話がありましたけれども、今日はこれ2回目だそうで、1回目は広島県人会の会長の大竹さんが話をされて、皆さんのために有益な話をされたんじゃないかと思いますが、私は皆さんぐらいの世代の人に「あれをしろ、これをしろ」「ここを気をつけろ」というのは基本的に、私自身の考え方ですが、得意じゃないものですから、普段着の自然体のままで、自分がやってきたこととか、今感じていることなどをお話して、その中で少しでも面白いと思われることがあればそれを使っていただければ、それで大変幸せだと思っていますので、よろしくお願いいたします。
だいたい顔を見ていただければわかると思いますが、私の年はいくつだと思われますか。83なんですよ。来年は戌年、84になるわけです。私は社会に出て、23歳で通産省に入って、よく若い人でも年寄りでもそうですけど、同じ干支の人間が集まって飲んだり食ったりして愉快に過ごす会合というのがある。戌年会というのがあるんですね。
生まれでいうと1934年なんですけど、私が社会に出たときに戌年で一番大きな顔をしていたのは、大正11年。1934年からもう一回り戻りますから1922年。でも1922年じゃ面白くないんですね。大正11年というと11ですからワンワン。皆さんは読んだことないかもしれないけど、『のらくろ』という漫画がありましてね、ちょっとやっぱり軍国主義の時代であったということもありますが、のらくろというのは、野良犬の黒い犬という意味ですよ。二等兵から始まってだんだんだんだん上がっていくんですよ。田河水泡さんという人が描いた漫画で、それを読んで育ったのが大正11年生まれの人だったというので、自分たちが本流の犬だというわけですね。だから、昭和9年生まれは子犬なわけです。お前たちは子犬だと。
そうしたらもう一回り上の明治43年が出てくるんですね。これが親犬だというんですね。明治43年の親犬なんかが出てくると少し煙たくて、大変だなあと実はちょっと思ったんです。皆さんの中に戌年の方がおられたりすると、私ぐらいの83歳というのは親犬どころか、曾祖父さんぐらいの犬にあたるわけで、そうとう時代格差が大きいなとお感じになられるんじゃないかと思いますが、そこのところはお許しいただいて、少し皆さんのお耳を拝借したいと思います。
生まれたのは広島市の中広町というところ、横川の近所ですね。それで中広から東観音町に引越をしまして、観音小学校というところに行ってたんです。昭和16年に小学校に入りました。それまでは尋常小学校というのがあったんですけど、それが国民学校というのに名前が変わったときの1年生だったんですが、ちょうど1年生のときに第2次世界大戦に日本が参加して、日本の場合はそれを大東亜戦争というふうに言ってたわけですけど、初めのうちはえらい勢いで日本が勝ってましてね。
パールハーバーなんてご存じだと思いますが、真珠湾に連合艦隊が出て行って、空母から艦載機が出て行って大変な勢いで、アリゾナをはじめとして真珠湾にいたアメリカの太平洋艦隊をやっつけちゃったということがありました。勝ったと皆わいわい騒いだりしていたんですが、その後、香港をすぐ陥落させて、香港からマレー半島に進出、シンガポールも陥落、連戦連勝という時代に、小学校1年2年の時代を過ごしたんですが、そこから先は大変世の中がブルーになってきて、昭和19年ぐらいになりますと、東南アジアに展開していた日本の軍隊がどんどん負けて、特に島を守備していた人たちは皆全滅するわけですね。それを玉砕と称して、そういうニュースが次々に入ってくる時代になってきたわけです。
それで昭和20年の5月に疎開をしました。疎開という言葉も皆さんあまり聞かれたことはないと思いますが、非常に危険な地域からやや安全な田舎の方に生活の本拠を移すということでして、芸備線の向原町というところがありまして、当時は蒸気機関車ですけど、広島駅から行けば山の間を縫ってずっと走って行って1時間20分ぐらい行ったところでしたね。だから非常に遠い感じなんですけど、実は直線距離で見ますと20キロか25キロしか本当はないというところです。そこに昭和20年の5月に疎開をしました。
ご承知のように8月に原爆が投下されたわけですが、8月6日の朝、夏休みですから、田んぼのあたりを、いいお天気で、歩いていますと、まず飛行機が飛んで来るのが見えまして、それからその次に光って、何が光ったのだろうと思って見ていたのですが、光を感じてしばらくたって非常に金属的な鋭い音がしまして、それが原爆。その音がしてしばらくたったら、山の向こうからきのこ雲がわあっと湧き上がってきた。そういう時代だったんです。
後で思いますと、私の人生を振り返って、その5月に両親が疎開をするという決断をしてくれたおかげで、実は生き長らえているのでありまして、東観音町に住んでいた家などは、原爆が落とされて半年ぐらい後に行ってみましたが、何もない。全部焼けてしまっていまして、唯一残っていたのは、コンクリート製の防火用水。これだけは残っておりました。そこにいれば、それこそ行方不明か、わけのわからない状態で死んでいたと思うんですね。いつも、だから自分の人生を振り返るときに、両親が決断をして田舎に疎開してくれたということに大変な感謝をしています。
<②に続く>